カテゴリー「上田近郊の名勝・名所・文化財」の記事

2009年7月21日 (火)

志賀高原のヒカリゴケ

国の天然記念物に指定されている佐久岩村田のヒカリゴケは以前紹介しましたが、スキーのメッカである志賀高原も知る人ぞ知るヒカリゴケの豊産地です。

Hikari1

Hikari2

Hikari3

さすがに岩村田のヒカリゴケのように固まって大群落を作っているということはありませんが、木のウロや岩陰を覗くとかなりの確率でヒカリゴケを確認することができます。保護柵などはありませんので、手が届く範囲で観察することができますし、迫力としては岩村田よりも上と言えるかもしれません。
写真のものは大沼池入口のバス停付近で撮影したヒカリゴケですが、このあたり一帯のジメジメした日蔭には特に多く見られます。

ところで、冬の志賀高原も良いですが、夏の志賀高原も色々な見どころがあるものです。
これは澗満滝と言って、長野県内でも屈指の大瀑布です。

Kanman

Kanman2

澗満滝は国道292号線途中の展望台から見ることができます。遠目で見るだけですが、それでも迫力は伝わってくると思います。

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2009年6月 8日 (月)

稲倉棚田(上田市岩清水)

姨捨の棚田を以前に紹介いたしましたが、上田にも稲倉棚田という典型的な山間の棚田があります。最近、上田市としても保存とアピールに力を入れていますし、そのせいか年々他県から観光に訪れる人が増えているような感じを受けています。

Inakura1

稲倉棚田がいつ頃からあるか詳しいことは不明のようですが、戦国時代から江戸初期ではないかと言われています。
棚田の常として山間の傾斜地に狭い田んぼが積み重なっているような地形ですが、地籍名の岩清水からも分かるようにこのあたりは豊かな湧水に恵まれていまして、美味しいお米がとれるそうです。

Inakura2

ただ、今の時期ですと田植えが終わって間もなくですので、まだ棚田と言うよりも棚池といった感じです。満月の時になど行くと、もしかすると田毎の月が見られるのかも知れません。

それにしても棚田というのは、なぜか人の心に郷愁を呼び起こさせるものです。捕虫網を持った子供たちがあぜ道で虫取りしているのを見ては、思わず私も自分の子供のころを思い出させられました。

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2009年5月24日 (日)

旧中込学校

佐久市中込に、旧中込学校という史跡があります。

Nakagomischool1

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外観から受ける印象は洋館そのものですし、とても学校とは思えない姿形ですが、小学校として使われていた建物です。建造は明治8年でして、全国でも最も早い部類に属する洋風学校建築です。その資料的価値から国の重要文化財に指定されています。

Nakagomischool3

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これが学校内部の一階部分です。洋館風の外観に似合わず、一昔前の木造校舎を彷彿とさせる部分が多いと思います。ステンドグラスがアクセントとして洋風情緒を演出していますが、それ以外の雰囲気をどことなく懐かしく思う方も多いのではないでしょうか。

Nakagomischool4

Nakagomischool5

これは二階部分ですが、一階部分とかなり趣きが異なりまして完全に洋風な造りになっています。一階と違って二階は職員室や校長室がありましたので、よりハイカラな造りにしたのでしょうか。

ちなみに中込学校は、地域住民の寄付によって建てられた学校です。上田でも地域住民の寄付によって自由大学が設立されていますが、この当時の人々にとって教育とは本当に重要なものであり、高い先進的知識を学んで行くことが地域全体の誇りだったのでしょう。
地方分権の重要性が近頃よく叫ばれていますが、明治・大正という時代は現在よりもずっと地域の独自性と高い教養、それを裏打ちする財力があった時代であると言えると思います。

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2009年5月23日 (土)

佐久市岩村田のヒカリゴケ自生地

植物関係に詳しい方ですとよくご存じのことかもしれませんが、日本で初めてヒカリゴケの自生が確認されたのは佐久の岩村田です。その後相次いでヒカリゴケの自生が日本で確認されたのですが、自生量としても岩村田のヒカリゴケは全国に稀にみる豊富さを誇っていまして、国の天然記念物に指定されています。

Hikarigoke5

これがヒカリゴケの自生地です。

Hikarigoke2

貴重なものですので、自生地の洞窟には鉄格子がしてありまして中には入ることができませんが、格子越しにヒカリゴケを見ることができます。

Hikarigoke4

Hikarigoke3

エメラルドグリーンと言いますか、何とも言えない幻想的な色合いです。
ちなみに、ヒカリゴケは自ら発光しているわけではなく、細胞の特殊構造によって外部の光を反射してこのような光を放っています。ですので、洞窟内部の真っ暗闇では全く光りませんので、鉄格子越しに外から見ているだけで十分です。

岩村田の地元ではかなり有名な場所のようですが、上田近辺でご存知の方はかなり少ないのではないでしょうか。高速道路を使えば30分足らず、下道でも一時間程度の場所ですので、ちょっとしたドライブがてらに足を運んでみるのも良いと思います。

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2009年3月20日 (金)

黄金の滝

滝と言っても、水が流れる滝ではありません。伊勢山地域でそう通称で呼ばれている、オウバイの群生地のことです。

Gold1

Gold3

Oubai

断崖絶壁を覆うようにオウバイが咲き乱れる様をして、黄金の滝の通称がつきました。まだ3分咲きといったところですので、見頃はまだまだこれからです。

オウバイ自体は庭木としてポピュラーな植物ですし、いち早く春を告げる花としてどこでも目にする機会の多いものだと思います。中国原産の植物ですので、群生地と言っても自然にできたものではなく、何らかの理由で人為的に植えられたものでしょう。

ただ、黄金の滝のオウバイがいつから伊勢山の崖に発生したかは全く不明でして、一説によると崖上にある稲荷神社を建てた戦国大名の村上義清が植えさせたものではないかとの話もあります(村上義清と村上水軍が血の繋がった同族であり一定の交流を持っていたため、村上水軍が大陸貿易を行っていた時に持ち帰ったオウバイが、回り回って信州上田の伊勢山の地にまでもたらされたとする説です)。オウバイが日本に渡来したのは江戸時代初期とされていますので、それから考えるとちょっと辻褄が合わないのですが、何ともロマンを感じさせる話であります。

Inari

これが崖上にある稲荷神社です。特に案内板などは出ていない小さな社なのですが、村上義清と関係があるという話を聞くと、何となく有難味を感じてしまいます。伊勢山の山頂にある砥石城との位置関係から考えても、砥石城を一つの重要拠点としていた村上義清がこの崖を防衛の要として大切にしていたというのは、けっしておかしな話では無いかも知れません。
もしも村上義清がオウバイをこの地に植えさせたとするなら、剛直一本槍な気質ばかり伝わっている村上義清も、意外と風流な一面があったのかも知れないとほほ笑ましく思います。

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2009年2月15日 (日)

梅の花が咲きました(上田城跡公園)

例年ですと3月に入ってから咲く梅の花が、このところの陽気で咲き始めてしまいました。

Ume1

Ume2

今日も昨日ほどではありませんが、最高気温が15℃を超えて春の陽気です。
こういう開花が早い年は霜の影響を受けやすいですので、果物にとっては不作の兆候と言えます。特に開花の早い梅やアンズで影響が大きくなることが考えられます。
アンズの開花は4月上旬が平年ですので、どのくらい早くなるのかかなり心配です。

下は夕暮れの上田城の様子です。
デジカメを新しいものにしましたので、試し撮りも兼ねて撮影しました。

Dsc_0813

南櫓です。

Dsc_0833_2

日没時の逆光で撮影した西櫓です。

Dsc_0849

お堀です。後ろの山は太郎山になります。

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暗くなって月が昇ったところを、試し撮りしてみました。

まだ不慣れなところが多いですが、やはりデジカメの世界は日進月歩でして新しいものはなかなかきれいに撮れるものです。

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2009年1月 7日 (水)

信濃国分寺八日堂(蘇民将来符)

以前に紹介した信濃国分寺ですが、何といっても有名なのは1月7日~8日に行われる八日堂縁日です。

Yokado

いつもは静かな信濃国分寺境内ですが、この日ばかりは大賑わいとなります。

Yokado2

参道には屋台がずらりと軒を並べて、なかなかの活況となります。子供のころは八日堂の夜店で買い食いするのが本当に楽しみでした。

さて、八日堂の由来ですが、マルチメディア情報センターのページにもあるように、毎月八日にありがたいお経を読み上げるところから来ていまして、特に年初めの1月8日には古来から大きなお祭りになっていたようです。賑やかな屋台の並びも古来から同じ様子だったようでして、その様子が絵図になって残っています。

しかし、参拝している人にとってはありがたいお経よりも、国分寺本堂横で売られている蘇民将来の護符を目当てに訪れている人の方が多いのではないでしょうか。

Syoraihu

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私たちが行った時は、わりと早い時間帯だったせいかそれほど混んでいませんでしたが、日が落ちて夕方遅くなってくると大変な人出になってしまい、護符を買うのも一苦労です。

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これが蘇民将来符です。大小さまざまな大きさのものがありますが、形はほぼ同じでして、六角柱の上に六角錐状の傘をつけたような形にドロヤナギの木を彫って作った護符です。「蘇民将来 子孫人也 大福長者」と書かれていますが、この文言が何を意味するかと言いますと、日本全国に散らばっている蘇民将来伝説とほぼ同じものです。蘇民将来伝説は、伊勢市の道の駅のページがくわしいですので、ご存知ない方はご参照してみてください。
蘇民将来符を家の中に飾っておくことが蘇民将来の子孫であることを証明するものだとして、牛頭天王(薬師如来)が一年の無病息災と一家繁栄を約束してくれる、と言い伝わっています。

蘇民将来符自体は日本各地で見られる風習なのですが、信濃国分寺八日堂縁日で見られる護符は特に形が美しいものだとされています。
一番小さな形の蘇民将来符は一年中、本堂で買うことができますが、それ以外の大きさのものですとこの八日堂縁日でないと入手することができません。全国的にも八日堂の蘇民将来符は有名なようでして、わざわざ他県から買い求めに来る方も多いようです。

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2008年12月28日 (日)

中禅寺薬師堂

前山寺三重塔の塩田地域一帯は鎌倉時代~室町時代にかけての一級の文化財を擁した神社仏閣が林立しており、それがゆえに信州の鎌倉と呼ばれています。今日は前山寺三重塔に並ぶ観光名所として知られる中禅寺薬師堂を紹介してみます。

Chuzenji1

中禅寺薬師堂は平安時代の建築様式をよく残した鎌倉時代初期の建造になりまして、国の重要文化財に指定されています。長野県下では最古の木造建造物であるとともに、中部日本全体を見てもおそらく現存する最古の木造建造物であると言われています。

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後世の建築に見られるような彫刻などはほとんどありませんが、建築そのものが持つ安定感からくる美しさを楽しむことができます。

また、薬師堂の中に収められている薬師如来像と神将像もやはり国の重要文化財に指定されています。

Nyorai

薬師堂とほぼ同時期の作品であると推定されていまして、薬師堂とともに塩田の地で信仰の対象として残り続けてきたものなのでしょう。

県宝になりますが、山門の仁王像はその様式から平安時代末期のものと言われています。ですが、薬師堂・薬師如来像が当初は平安時代末期のものと推定されていて後に鎌倉時代初期のものであると訂正されたことを考えますと、やはり鎌倉時代初期のものであるのかも知れません。

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たしかに運慶・快慶に通ずるような、たくましく躍動感のある彫刻でして、見ごたえは十分にあります。

さて、中尊寺薬師堂をはじめとするこれらの傑作を作るだけの経済的背景は一体どこから来たのか、というのは今となってはよく分かっていません。
候補として、源頼朝の有力御家人で塩田の地頭職だった島津忠久の出資によるものではないかとも考えられています。
今年の大河ドラマは篤姫でしたが、彼女の実家の薩摩藩主の島津氏の祖が島津忠久になります。のちに島津忠久は九州へと赴任し、薩摩・日向の守護になりますが、塩田と薩摩という遠く離れた土地に少なからぬ縁があると考えると面白いものです。
そう言えば、幕末期に佐久間象山・赤松小三郎といった日本随一の兵学者が上田藩から次々と出てきて、薩摩藩の志士たちと密接な関係を持って行きますが、なんとなく宿縁じみたものを感じてなりません。

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2008年12月23日 (火)

信州大学繊維学部講堂

先日、フリーペーパー真田坂の取材で信州大学繊維学部の講堂に写真撮影に行ってきました。

Kodo1

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繊維学部講堂は昭和2年の建造です。信州大学繊維学部は、もともとは上田蚕糸専門学校という独立した学校だったのですが、戦後になって信州大学へと吸収されました。従ってこの講堂は、上田蚕糸専門学校時代のものということになります。
上田近郊の大正ロマンの建物として最も高名なものですので、私としては以前からとても興味がありました。一般公開はされてはいませんが、今回は特別に建物の中にまで入らさせていただきました。

Kodo2

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講堂内部です。想像していた以上に素晴らしい建物でして、さすがは国の礎となっていた蚕業の学校の講堂だと感動させられました。講堂と言うよりもお洒落なダンスホールといった趣ですし、上田近郊でこれほど凝った作りの当時の建物はちょっと思い当たりません。
一般公開されていないのが非常に惜しまれるところですが、それだけにこの空間を今は独占できているのだ、と変な感動を覚えました。

Light1

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照明器具もなかなか洒落たものでして、飯島商店にもこのレベルの照明器具が欲しいなとついつい思ってしまいます。

さて、蚕の学校ということで、この講堂内には蚕に関係するデザインが各所に見られます。

Endai1

Endai2

両方とも演台の写真なのですが、上の写真は蚕蛾と繭のレリーフでして、下の写真は桑の葉のレリーフです。

Endai3

演台の横にある柱の台座ですが、これも桑の葉が使われています。

Kazari2

講堂正面入口の天井板の換気口です。二つの繭を囲んで蚕蛾が4匹いるのがわかります。

もちろん、上田地域内で類を見ないような昭和初期の建物であることは間違いありませんが、日本唯一の蚕業専門学校という性質をよく表した講堂のデザインを見ていますと、日本が誇る文化遺産であると言ってもけっして過言では無いと思います。

現在、繊維学部講堂は飯島商店の建物と同じく国の登録有形文化財になってはいますが、、もっと重要な文化財としての扱いを受けてしかるべきなのでは無いかと思ってしまいます。

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2008年12月20日 (土)

シナノイルカ(高仙寺)

小泉小太郎の里の上田市小泉地域にある高仙寺というお寺に、シナノイルカといってイルカの化石が保管されています。

Iruka

これがシナノイルカの化石でして、写真右から頭と手、左に背骨とろっ骨があります。イルカですので海の生物でして、このシナノイルカはおよそ1500万年前に上田地域が海であった頃のものです。鴻の巣で以前に上田地域が海であったと紹介しましたが、ちょうどその頃に上田の海で泳ぎ回っていたのでしょう。

ちなみにシナノイルカは現在のイルカよりも歯が小さく手が大きいなど、かなり固有な特徴を持っているようでして、今のところ上田で発見されたこの化石だけに見られる種のようです。そんなこともあり、現在では長野県県宝に指定されています。

シナノイルカ以外にも高仙寺にある博物館にはいろいろな化石が展示されていまして、一番目につくのは博物館に入ってすぐにあるクジラの化石でしょう。

Kujira

クジラの背骨部分でして、シナノイルカとほぼ同時期に上田の海で泳ぎ回っていたものです。たまにこちらがシナノイルカの化石だと勘違いされている方もいますが、シナノイルカ同様に上田地域が海の底だった頃の様子を物語る貴重な化石であることには間違いありません。

上田のずっと南東に小海という場所がありまして、そこが海だと勘違いしたクジラの夫婦が日本海から小海目指して千曲川を遡上した、などという笑い話のような伝説が上田地域にありますが、1500万年前でしたら何も千曲川の急流を上らなくてもクジラやイルカたちの天国だったわけです。

ちなみに高仙寺には小泉大日堂という立派なお堂があります。

Dainichidou

もとは室町時代に建てられたものではないかと推定されていますが、江戸時代に粗雑な修理を行って原型を損なっていたので昭和の大改修で建造当初の姿にできるだけ近く復元修理したようです。
小泉大日堂にはこんな伝説が伝わっていまして、「昔、小泉大日堂の天井裏に蜘蛛の化け物が住み着いて、それを退治したことがありました。再び蜘蛛の化け物が住み着かないように、天井板をそれ以来すべて外しているのです」、というものです。
しかし現在の大日堂の中を覗き見ると、天井はきちんとあるように見えます。もしかすると、江戸時代に行った修理の時に天井板を取り外し、昭和の大改修でもとの形へと復元したのかも知れません。

小泉大日堂の見学は自由なのですが、シナノイルカの見学には予約が必要です。
詳細はじゃらんnetのページをご覧になってください。

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2008年12月14日 (日)

生島足島神社

観光ガイドブックなどで上田の紹介があると、必ずと言っていいほどに掲載されているのがこの生島足島(いくしまたるしま)神社です。

Ikushimatarshima

写真でもわかりますが、池の中に島を作ってその中に主要な建物を置く形式は宇治平等院鳳凰堂にも見られますように非常に古式な様式であると言えます。
お祀りしている神は生島神・足島神という二神なのですが、これは誕生と繁栄を司る神とされていまして、日本が誕生した時から存在している神だといわれています。生島神と足島神が居るとされる内殿の中にはもちろん一般の人は入ることができませんが、床も何もまったく無い土間の空間だそうです。大地そのものがご神体だということでして、古代宗教の形を色濃く残した自然崇拝なのでしょう。

生島足島神社は昔から日本の中心であると言われていまして、生島足島神社の中にも大きく日本中心の地と看板が出ています。それはちょっと言い過ぎのような気がしないでもありませんが、おそらく古代における信濃一帯の信仰の中心地であったであろうことは想像に難くないところなのです。

Ikushimatarshima2

Ikushimatarshima3

本殿、内殿ともに室町時代に再建されたものであると考えられており、県宝に指定されています。
なお、色鮮やかな朱と漆で彩られていますので新しい建物のように見えますが、これは昭和に入って色の塗り直しをしたからです。この修復作業は国費によって行われたそうですので、未だもって国家レベルでの重要な神社であると認められているということなのでしょう。

生島足島神社にはもう一つ面白い言い伝えがありまして、それは一般的には信州の神の代名詞とされている諏訪大社との関係です。諏訪の神様は建御名方命(たけみなかたのみこと)という人なのですが、建御名方命がこの地にとどまり生島神足島神の庇護を受けたとの伝説です。建御名方命はたいそうこれに感謝し、生島足島の神に粥を自ら作って奉じたとされています。

Suwa

Suwa2

Suwa3

そんな伝説による深い結びつきのせいか生島足島神社の中には諏訪社が摂社としてありますが、これまた江戸初期の立派な建物でして本殿と門が県宝に指定されています。伝説を裏付けるように「お籠り祭」という古い神事が今も行われておりまして、毎年秋から春にかけて諏訪社から神主が生島足島社へと移ってお粥を炊いて献じています。

伝説の通りですと、諏訪神よりも生島足島神は歴史的に古い土着の神様である、ということになります。また、建御名方命は中央の大和政権から追われて諏訪へと亡命したとする説をとると、建御名方命を大和政権の追手から守るだけの勢力を生島足島神が持っていたということでして、その勢力は国家に匹敵するようなものだったともロマンが膨らみます。もっとも、この古代ロマンは何人もの作家が着目していまして、いくつもの小説の題材として生島足島伝説は使われています。

Onbashira

諏訪大社と言えば御柱祭(おんばしらまつり)ですが、生島足島神社にも御柱祭がありまして上の写真がその御柱です。生島足島神社においては、御柱祭も生島足島伝説にちなんだものだとされていまして、諏訪神が生島足島神に感謝の意を表すために行っているとされています。

今となっては諏訪大社の方が有名になってしまっていると思いますが、生島足島神社は観光ガイドブックに紹介されるだけの文化的価値と歴史ロマンがある場所であるということで今日は紹介してみました。

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2008年12月 1日 (月)

駒形岩

鳥羽山遺跡から車で5分程度、長和町に駒形岩という名勝があります。

Komagata

これが駒形岩でして、文字通り駒(馬)の形をした岩なのですが、どこに馬が居るか分かるでしょうか。

Komagata2

馬の形をした部分を拡大してみましたが、写真で左側を向いた馬の姿がなんとなく分かるでしょうか。写真左から右へと馬の顔、耳、馬の背といった具合に彫刻のように彫れているのが分かると思います。なんとなくうずくまって休んでいるような姿でして、かわいらしい感じがあります。

駒形岩の伝説はいくつかあるようですが、一番有名なのは日本文化研究センターのページに掲載されているものだと思います。馬に乗った兄妹の父親は防人(さきもり)だったとの話もありますが、そうだとすると平安時代以前の話でしてずいぶんと昔の物語になります。

Komagata5

この駒形岩のある岩壁は、せんが淵の依田川の浸食作用によってできたものです。上の写真で中央に流れている川が依田川でして、川の左岸に見えるのが駒形岩になります。自然の大きな力は時として、駒形岩のような作品を後世へと残してくれることがあります。

駒形岩はこの馬の形をしていることで有名なだけではなく、ハヤブサの一種であるチョウゲンボウの繁殖地として生物学的にも貴重な場所でして、長和町の天然記念物に指定されています。

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このような岩壁の穴の中にチョウゲンボウは営巣する性質がありまして、4月から6月くらいまで子育てするようです。さすがにこの時期にはチョウゲンボウの姿は見えませんでしたが、時期になるとバードウォッチャー達が観察に訪れることも多いようです。
チョウゲンボウの姿はこのページがよく撮影できていると思います。

ちなみに、下の写真が駒形岩の兄と馬を祀ったとされる駒形神社です。

Komagata3

ちょっと屋根のトタンや灯篭が傾いてしまっていますので保存状態が心配です。

Komagata4

これは駒形神社にあるトチの大木でして、樹齢300年と推定されていまして上田市の天然記念物に指定されています。この神社が古くから土地の人に信仰されていたことを示すものだと思います。
ちなみに駒形神社と駒形岩は意外と離れた位置関係にありまして、駒形岩は長和町、駒形神社は上田市武石に位置しています。

ところで駒形神社があるあたりはちょっとした高台でして、浅間山連山がよく見えます。

Asama

これは駒形神社のちょっと下にある子檀嶺神社から見た夕焼けの浅間山連山です。一番右にある白い山が浅間山でして、一番左手に見えるのがこの間冠雪したばかりの烏帽子岳です。

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2008年11月30日 (日)

鳥羽山遺跡

以前に紹介したせんが淵の対岸にある岩壁に、鳥羽山遺跡という古墳時代の遺跡があります。

Sengahuchi3

上の写真の一番左端に見える洞窟が鳥羽山遺跡のある洞窟です。

Tobayama1

拡大するとこんな感じになります。

この遺跡は出土品から古墳時代であることは明らかなのですが、古墳を作らずに曝葬という特異な葬法をとっています。曝葬とは遺体をそのまま曝しておく葬法でして、鳥羽山遺跡の曝葬は沖縄によく見られる崖葬(崖にある洞窟に遺体を安置する風葬の一種です)とよく似ていることが指摘されています。

Tobayama2

これが洞窟内部でして、おびただしい数の河原の石を敷き詰めまして、その上に遺体を曝葬していたようです。

Tobayama3

当時の石段だと思いますが、石組みがそのまま残っている箇所も多く見られます。

写真ですとあまり凄味が伝わらないと思いますが、今にも押し潰してきそうな岩壁の下にあるこの遺跡の雰囲気は、対岸に絶えず車通りがあるにもかかわらず古代の人に後ろから肩を叩かれそうな迫力があります。

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鳥羽山遺跡から出土した埋葬品は、この地域に類を見ないほどに豪華で高い技術のものであったようです。埋葬品等の詳細は丸子郷土博物館のページが詳しいですのでそちらをご参考にしてください。

このような裕福な集団が一体どうして曝葬という本州でも稀に見る葬法を大々的に行っていたのか、曝葬を行っていた集団とは一体どのような人々だったのか、というのは考古学的に非常に興味深いところでして諸説があります。
一説によると、琉球や東南アジア出身の地位の高い者がこの地域で一大勢力を持っていたのではないかということです。もしそうだとすると、上田地域はこの時代から文化的・政治的に非常に重要で、開けた土地柄だったのかも知れません。

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2008年11月24日 (月)

鹿教湯の文殊堂

別所温泉と並ぶ上田の名湯である鹿教湯温泉に、文殊堂という建物があります。文殊堂は今は天竜寺というお寺の所属になっていますが、元々は独立したものでして、全国を行脚し聖武天皇による国分寺建立にも大きな影響を与えたとされる行基の弟子の園行によって設立されたものだと伝わっています。

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これが文殊堂でして、江戸時代中期に再建されたものでして県宝に指定されています。たしかになかなか保存状態が良く、再建当時の姿を今に残す貴重な存在です。

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日光東照宮に通ずる極彩色が残っていまして、建造当初の姿を想像することができます。日本仏閣というと地味で渋い色合いを想像してしまいますが、文殊堂はそれとは違ってまさに絢爛豪華といった姿だったのでしょう。

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屋根には法住寺虚空蔵堂と同じく鬼板に鬼の面が乗っています。このことからも、法住寺虚空蔵堂に影響を受けているのかも知れませんし、もしかしたら当時は虚空蔵堂もこのような極彩色による装飾が色鮮やかに残っていたのかも知れません。

ちなみに鹿教湯は文字通り、怪我をした鹿が傷を癒すのに使っていた秘湯であるとされていまして、人間にこの秘湯の存在を知らせた鹿が文殊菩薩の化身であったとの言い伝えがあります。
今も文殊堂は鹿教湯の湯治客の散策コースとして賑わっていますが、今も昔も鹿教湯と文殊堂は密接な関係があったようです。

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2008年11月17日 (月)

法住寺虚空蔵堂

稚児ヶ淵へと向かう国道254号線沿いに法住寺というお寺があります(国道沿いに「虚空蔵堂」と比較的に大きな案内柱が出ていますのですぐにそれと分かります)。ここの虚空蔵堂というお堂は国の重要文化財に指定されていまして、上田地域でもかなり異色な建築物です。

Kokuzou1

これが虚空蔵堂でして、一番の特色はその屋根です。正面からですとあまりよく分からないと思いますが、裏に回るとその特徴がよくわかります。

Kokuzou2

まるで絵本に出てくる麦わら帽子のような形の屋根をしていまして、ユーモラスささえ感じます。このような造りの屋根を入母屋造というのですが、ここまで頭が飛び出た入母屋造の屋根は少なくとも上田地域では見たことがありません。

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屋根の側面ですが、鬼瓦ではなく鬼板と呼ばれる木製の飾りに赤鬼の面がついていまして、ちょっと見は怖い顔なのですが、よくよく見ると何となくこれも愛嬌のある顔です。

建築当時は柱や肘木、垂木なども朱塗りだったのでしょう。お堂の軒下に入ると、当時の朱塗りの面影が残っています。

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法住寺虚空蔵堂は建築年代は室町時代中期だとされています。一般には公開されていませんので私もよく見たことはありませんが、お堂の中には虚空蔵菩薩を収めた厨子がありまして、こちらも大変に精巧な作りをしているそうでして国の重要文化財に指定されています。

法住寺のあるあたりは鹿教湯への湯治客や三才山峠を越えて松本へと抜ける旅人たちでかなりにぎわっていたのでしょうし、それに伴って財力もあったのでしょう。法住寺虚空蔵堂を筆頭として文化財がいくつか見られますし、また伝説・民話もかなり豊富な土地柄です。

法住寺にも実は悲恋話の伝説があります。法住寺住み込みの小坊主さんと、大竜寺(という名前だと記憶しているのですが、後で資料を調べて確認してみます)のお手伝いしていた娘さんが主人公です。
昔はその二つの寺が激しく争っていて大変に仲が悪く、小坊主さんと娘さんが付き合っているのを知った両寺に関係する人々は、二人を憎んで寄ってたかっていじめ殺してしまったそうです。それからというもの、両寺の檀家のある村で不審火による火事が後を絶たず、村人たちはあの二人のたたりではないかと噂しあいました。
そこで二人を改めて手厚く弔うと、それきり不審火はおさまったそうです。

という話でして、物の怪も大蛇も竜も出てきませんが、人間の業のようなものをストレートにさらけ出した伝説でして何とも陰惨なものとなっています。伝説は伝説にすぎないのでしょうが、いつの時代でも「さもありなん」と思わせるものがあるからこそ、伝説は語り継がれているのかもしれません。

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2008年11月16日 (日)

稚児ケ淵(霊泉寺)

信濃毎日新聞にて紹介されたので少々知名度が上がりましたが、旧丸子町地籍の鹿教湯につながる国道254号線から脇道に逸れて霊泉寺温泉という小さな温泉地に行く途中の山道に、稚児ヶ淵という淵があります。

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これが稚児ヶ淵でして、遠くから見るのと違って、近くで見ると岩肌が深くえぐれていましてかなり壮観です。観光スポットとしてまったく有名ではないせいなのか安全のためのロープ等は全くありませんので、近寄る時には足を踏み外して崖下に転落しないように気をつけなければなりません。

ちなみになぜ少々話題になったかというと、この稚児ヶ淵がポットホールという珍しい浸食地形だからなのだそうです(経緯はこのページの説明が詳しいです)。この穴の中で岩が川の流れで回転し続けることによってできる浸食地形なのだそうですが、地質学に興味を持っている人の間でかなりの話題になったようです。

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段々畑のようにできた丸いポットホールが、川の流れにできているのが分かると思います。

もっとも、稚児ヶ淵自体は地域民俗学に興味を持っていた人には以前からそれなりに知名度がありまして、旧丸子町の町誌にもその伝説が掲載されています。ですが案内板等はありませんでしたし、インターネットで検索してみましたがここの伝説が掲載されているものがありませんでしたので、伝説の内容を紹介してみます。

その昔、霊泉寺にお稚児さんがいました(当時は子供の見習い坊主さんを「稚児」と言いました)。このお稚児さんは真面目でとても性格が良く、みんなに好かれていたのですが、ある時から夜更けに寺を抜け出すことがたびたびあるようになりました。不思議に思ったご住職が他の坊主さんに、このお稚児さんがどこに夜歩きしているのか後をつけていくようにと指示しました。
指示どおりにお稚児さんの後をつけていった坊主さんが見たのは、お稚児さんが川の淵で美しい娘と楽しそうに語り合っている姿でした。坊主さんは寺に帰ってご住職にこのことを報告しますと、お住職が顔色を変えました。その娘は川の主で魔性の者であり、このままだとお稚児さんがとり殺されるとのことだったのです。
寺に戻ってきたお稚児さんに、お住職はそのことを言い聞かせました。いったんは納得し、もう川へと行かないと約束したお稚児さんでした。
ですが、夜になるとお稚児さんはいたたまれなくなってしまいます。結局、ふらふらと再び川の淵へと行ってしまったお稚児さんが見たのは、淵の水面で手招きする娘の姿でした。娘の姿を追うようにお稚児さんは淵へと身を投げ、それ以後、お稚児さんの姿を見た者は居ないそうです。以来、この淵を稚児ヶ淵と呼ぶようになったのです。

という話でして、距離的に近いせいかもしれませんが以前に紹介したせんが淵の伝説と近いものがあります。当時は戒律やしきたりが厳しい社会でしたので、このような悲恋話がたくさんできたのでしょう。

さて、お稚児さんがいた霊泉寺ですが、これはかなり大きなお寺であったようですが、明治時代に火災に遭いほとんどの建物を焼失しました。その中で残ったのが不開門(あかずもん)と大ケヤキの木だったのですが、大ケヤキの方は今年に大風で倒れてしまって今は切り株だけとなっています。

Keyaki

大ケヤキの元気な時の姿はこちらでご確認ください。

一方、不開門の方は大ケヤキの隣に今も建っていまして、一説によると室町時代のものだそうです。

Reisenji

Pict0088

かなりぼろぼろになってしまっていますが、この不開門にも伝説がありまして、龍伝説です。この伝説もあまり有名ではないのかインターネットで検索しても出てこなかったので、ざっとした概要を紹介してみます。

昔々、霊泉寺に中国から高名な絵師が来て、龍の絵を描きました。ところがその絵の出来ばえがあまりに素晴らしすぎたので魂がやどってしまいまして、龍が毎晩絵から抜け出て付近の村々に悪さをしてしまいます。困ったご住職は竜の絵を寺の一角に封印し、その建物につながる門を開かずの門としました。これが不開門なのです。
龍は水を司る神ですので、この神通力によっていかなる火災に遭おうと不開門は燃えないのです。

という伝説でして、たしかに明治の大火でも不開門は燃えていません。現在では不開門はただぽつんと立っているだけのぼろぼろの門ですが、そんな伝説の裏付けがあると思うとありがたみを感じるところです。

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2008年11月 5日 (水)

もう一つのお仙が淵(丸子町飛魚)

武石村のお仙が淵を紹介いたしましたが、実はお仙が淵を上流とする武石川を下流に下ること10kmほど、依田川との合流点近くに「せんが淵」というこれまた「お仙」さんが主人公の悲劇の伝説を持つ淵があります。

場所は一番下の地図のとおりですが、上田から武石・長和町方面へと抜ける152号線沿いにありまして、鳥羽山の断崖絶壁の下あたりですので比較的に分かりやすい場所です。

Sengahuchi1

Sengahuchi2

このあたりの知名を飛魚(とびうお)と言いますが、依田川の流れが特に急で、魚が飛び跳ねないと上流へと渡れないからだとも、急な流れで水面が荒れる様がまるで魚が飛び跳ねているように見えるからだとも言われています。いずれにせよ川の流れが激しい場所であることを示していまして、名勝とされています。

他のホームページ等でここの伝説について詳しく紹介されているものがあまりありませんでしたので、簡単に紹介してみます。

その昔、お仙という少女が居ました。お仙が飛魚の滝のほとりで腰かけて居眠りをしていると、夢の中で美しい少年が現れて「おせんさん」と声をかけます。お仙はすっかりこの少年が気に入ってしまいましたが、何しろ夢の中のことですので目を覚ませば少年は消えてしまいます。夢の中の少年がすっかり恋しくなってしまったお仙は、毎日同じ時間に飛魚の滝に来ては夢の中での逢瀬を楽しむことになります。
そんなお仙を知った母親は、娘の願いをかなえるべく夢の少年を探し出し、ついにお仙と結婚させることができました。
ところが、母親と婿の少年との間は次第に上手くいかないものとなり、少年はお仙の家を飛び出てしまいます。お仙は嘆き悲しみ、飛魚の滝壺へと出かけて行くと、なんと滝壺の水面に少年の姿が映っていました。お仙は我を忘れて滝壺へと飛び込み、それきり姿を消してしまいました。それ以来、この滝壺を「せんが淵」と呼ぶようになったのです。

というお話でして、武石のお仙が淵の伝説と同じくお仙という人が死ぬ伝説ではありますが、武石のお仙が悪漢として描かれているのに対し、こちらの伝説はかなりロマンチックな悲恋物語となっています。恐らくに「お仙」という名前が同じだけで別人だと思いますが、対比してみると面白いです。

現在では物語で出てくる飛魚の滝は無くなってしまっていますし、車通りの激しい国道沿いですので興ざめです。ですが、なんとなく対岸の断崖絶壁の方向を向いて依田川を見ていると、この悲恋譚にも信憑性の面影が出てくるような気がいたします。

Sengahuchi3

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2008年11月 4日 (火)

お仙が淵(巣栗渓谷)

旧武石村の山奥に巣栗渓谷という名勝があります。地元でかなり力を入れて整備しているようでして、この時期は紅葉シーズンということもあって観光客の姿も多くなります。巣栗渓谷の大体の位置は下の地図のとおりです。


詳しい地図で見る

その巣栗渓谷の中にお仙が淵と呼ばれる淵があります。

Osen1

Osen2 

巣栗渓谷の中でも屈指の見どころとして遊歩道も整備されていますし、巣栗渓谷へと観光に行った人は必ず訪れる場所だと思います。

さて、この淵がなぜ「お仙」なのかということで、この淵には伝説があります。伝説の内容は武石村観光協会のページにもありますが、お仙が淵にある案内板が詳しいです。

Osen3

今から考えると何やら監禁殺人のような伝説でして、もしもお仙たちが無実の濡れ衣を着せられただけだったらと考えると恐ろしく思えたりもします。おそらく当時の人たちの中には閉鎖的なムラ社会意識が非常に強く、余所者に対する敵意のようなものが大きかったのでしょう。
と同時に、外部者に対する尊敬や畏怖のようなものも読み取れまして、なかなかに面白い伝説だと思います。
ちなみに上田市街地周辺ではこの手の話はあまりありませんが、おそらく上田が古くから交通の要所で人の出入りが絶え間無かったせいだと思います。

実はお仙が淵の伝説は他にもありまして、お仙がつつじの乙女のように失恋の末にお仙が淵へと身を投げるというもの、はたまた鞍ケ淵のようにお仙が実は竜であったというものなど、上田の影響を受けたと思われるものも多いです。ですが、一番有名なのは案内板にある伝説です。

お仙が淵以外にも巣栗渓谷は起伏に富んで見どころはたくさんあります。特にこの時期は紅葉もきれいですので一度訪れてみることをおすすめします。

Suguri

Pict0118

Suguri2

Suguri3

Suguri4

Suguri5

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2008年11月 2日 (日)

修那羅の泉

山田神社の湧き水出浦滝神社の湧き水と紹介いたしましたが、おそらく上田で一番有名で、名水として知られているのは修那羅の泉だと思います。

詳しい地図で見る

修那羅の泉は修那羅峠へ向かう県道273号線の道沿いにありまして、峠道の随所に案内板がありますし泉のところに大きな看板もありますのですぐにそれと分かります。

Syunara1

Syunara2

おそらく地元で整備をしているのでしょう。かなりの山奥の割に整備は行き届いています。
この時期ですとさすがに訪れる人も少ないですが、夏には水を汲みに来る人や、休憩しに立ち寄るバイクのツーリング客などでかなりにぎわいます。もっとも、駐車スペースはかなり小さいですので賑わうシーズンには注意が必要です。

Syunara3

湧き水の量としては結構豊富でして、透明感のある水が年中涸れることなく湧き出ています。有名なだけあって美味しい水でして、かなり柔らかい感じの飲みやすい湧き水です。

修那羅峠には安宮神社の石仏群など、興味深いスポットが他にもあります。修那羅峠の峠道のふもとには小泉小太郎の里の小泉や、小泉氏と姻戚関係にあった名族室賀氏の本拠地である室賀がありますので、山奥とは言え古くから文化的に開けた場所であったのでしょう。
修那羅の泉が歴史的にどのような位置づけなのかは知りませんが、修那羅峠を越える旅人たちの喉を今も昔も潤し続けてきたのかも知れません。

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2008年10月30日 (木)

国宝安楽寺三重塔

国分寺三重塔前山寺三重塔大法寺三重塔と紹介していきましたが、上田地域で一番有名な木造塔といったら何といっても別所の安楽寺三重塔です。
よく知られていることですが、一番下の階は裳階(もこし)と言って飾りです。見た目では四重塔なのですが、三重塔として扱われているのはこのせいです。

Anrakuji1

Anrakuji2

見て分かるとおり、以前に紹介した三つの木造塔とは明らかに雰囲気が異なります。安楽寺三重塔は日本で唯一の木造八角三重塔でして、他の上田地域の木造塔はすべて四角形なのです。形が八角形のせいでしょうか何となく異国情緒が漂っていますし、まるで絵本で出てくる唐の国の風景のようです。

Anrakuji3

塔の二階部分をアップにしてみました。大法寺三重塔や国分寺三重塔とは異なり、縁側も手すりもありません。前山寺三重塔のように柱から貫が飛び出ている、といったこともありませんので、なんとなくキノコの傘を連想してしまうような姿をしています。

建築年代ははっきりとは分かっていませんが、大法寺三重塔とほぼ同時期の鎌倉時代末期であろうと推定されています。
この時代は、鎌倉幕府で執権として実権を握っていた北条氏の分家が、塩田に居城を構えて上田地域を統治していました。ですので、中央からの文化や富がふんだんに流入していた時代でもありまして、非常に多くの文化財が上田の地にもたらされました。俗に上田の塩田・別所地域を「信州の鎌倉」と呼びますが、鎌倉へとつながる鎌倉街道が整備されたりしまして太いパイプで繋がっていたのです。一説によると、安楽寺三重塔も北条氏の菩提をとむらう供養塔として建てられたのではないかとも言われています。

北条氏はご存じのとおり、後醍醐天皇や足利尊氏らによって攻め滅ぼされて鎌倉幕府滅亡の憂き目にあいます。上田の地で三代にわたって栄えた北条一族も、当主の北条国時・俊時父子が自刃して果てて滅亡することとなります。
この地域はその後、福沢氏、武田氏、真田氏、仙石氏、松平氏と統治者が変わって行きますが、統治者が変わろうとその価値が不変のものであったからこそ、現在まで安楽寺三重塔をはじめとした文化財は残り続けているのです。

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2008年10月26日 (日)

国宝大法寺三重塔

上田市の隣にある青木村に国宝に指定されている三重塔があります。

Daihouji1

Daihouji2_3

大法寺三重塔は通称「見返りの塔」と呼ばれていまして、その美しさから思わず振り返って見直してしまうといわれている名塔です。建造年代は鎌倉時代末期でして、京都や大阪といった文化の中心地の職人を招いて建てられたものだとされています。この大法寺三重塔に、京都や奈良の木造三重塔に近い雰囲気を感じることが出来るのはこのためでしょう。

ちなみに、室町時代に再建された信濃国分寺三重塔のモチーフはこの大法寺三重塔であるとする説もあります。確かに国宝に指定されるだけありまして、シンプルな中に端正な美しさを感じることができますし、他の塔のお手本になるのも不思議ではないところです。

大法寺三重塔の大体の位置はこちらになります。地図からもわかりますように、大法寺は上田市と青木村の境に在ります。
上田市には安楽寺三重塔という国宝がありますが、もしも大法寺がもうちょっと東にあって上田市内でしたら国宝が二つ存在する市ということになり、長野県で唯一国宝を複数持っている市町村ということで観光アピールできたのに。という愚痴話も聞いたことがあります。
安楽寺三重塔と大法寺三重塔は上田市と青木村ということで所属する市町村は異なりますが、直線距離にして5kmも離れていない非常に近接した位置関係になっています。長野県内でこれほどに近接した国宝は他にありませんので、当時はこの一帯が全国的に見ても非常に有力で裕福な土地であったことには間違いありません。

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2008年10月20日 (月)

前山寺三重塔

弘法石を産出する弘法山のふもとに、前山寺(ぜんさんじ)というお寺があります。その名の通り、弘法山と深い関係があり、開祖は弘法大師であると伝えられています。
こちらの方は国分寺の三重塔とは異なり、かなり観光スポットとして知名度がありまして、観光客の数も多いです。

Sanjyuto2 

この三重塔は通称で「未完の完成塔」と呼ばれていまして、その名の通りに何らかの原因で未完成だと思われる部分が多数あります。
塔の二階部分を先に紹介しました国分寺三重塔(どちらも建造は室町時代であると推定されています)と比較してみると、未完成な部分が分かりやすいと思います。

Hikaku1

こちらが前山寺三重塔の二階部分で、

Hikaku2

こちらが国分寺三重塔二階部分です。

前山寺三重塔には普通はあるはずの縁側と手すりがありません。意図的に付けなかったのかというとそうでも無いようでして、縁側を取り付けるための支えとなる杭(貫(ぬき)と言います)が柱から飛び出ていますので、建築当初は縁側をつけるつもりだったと推定されています。
また、国分寺三重塔の写真ではちょっと分かりにくいと思いますが、二階部分の壁に普通は窓がついているものなのですが、前山寺三重塔にはそれが欠落しています。
ですが塔の二階へと人が上がることはありませんし、実用面を考えてムダをそぎ落とした三重塔本来の姿がここにある、という考え方もありまして、これが「未完の完成塔」と呼ばれる所以となっています。

Sanjyuto1

確かに全体として見るとこれはこれでシンプルな美しさがありまして、鑑賞面からも高い評価を受けている名塔です。国分寺三重塔同様に国の重要文化財に指定されていますので、セットで鑑賞すると面白いと思います。

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2008年10月15日 (水)

信濃国分寺

ハスの花の紹介は以前いたしましたが、そういえば信濃国分寺の紹介をしていませんでした。
国道18号線沿いにある「信濃国分寺跡」の方には観光バスが停まっていたりするのですが、信濃国分寺の方に来る観光客の方はあまりいないと思います(信濃国分寺の大体の位置)。意外と見落とされがちな観光スポットですのでおすすめしておきます。

Sanjyutou

信濃国分寺のシンボルである三重塔です。建築年代は室町時代であると推定されていまして、国の重要文化財に指定されています。実はこの三重塔は、明治時代に国宝に指定されたこともあります。どういう経緯で重要文化財に格下げになったのか知りませんが、それなりの見ごたえはある堂々たる三重塔です。
見に来る人があまり居ませんので静かなのは良いことですが、どうしてあまり注目されないのか不思議になります。

ちなみに信濃国分寺のあたりはたびたび戦火にさらされまして、聖武天皇の命令によって建てられたオリジナルの信濃国分寺は平将門の乱によって消失しました。
その後も真田昌幸が徳川家康の軍を退けた第一次上田合戦等の舞台となったりもしまして、何かと不運な寺院です。三重塔以外は比較的新しい時代の建物ばかりなのは、このような経緯があるからのようです。

Hondo1

こちらは信濃国分寺の本堂です。県宝に指定されていますが、時代はぐっと新しくなって幕末に建てられたものです。
この本堂の彫刻は、荒神宮でも紹介いたしました竹内八十吉のものです。荒神宮のものよりは派手さはありませんが、躍動感は十分に堪能できる出来ばえです。

Hondo6

Hondo5 

Hondo3

Hondo4

ところで、信濃国分寺が上田にあることから、聖武天皇の時代には上田に国府(今で言う県庁に相当します)があり、信濃の国の中心地であったと推定されています。信濃国府の位置は諸説ありますが、今のところ決め手となる遺物は見つかっていないようです。

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2008年9月22日 (月)

姥捨の棚田(田毎の月)

飯島商店のある上田市街地から車で40分ほどの千曲市に、姨捨という場所があります。その名の通り、姨捨伝説の場所でして全国的にも有名です。

ですが今日は姨捨伝説の方ではなく、田毎の月の方の棚田について紹介いたします。

Tagoto2

こんな感じの棚田が姥捨山の斜面に沿って、ずっと続いています。その見事さは昔からよく知られていて、多くの人々が田んぼ一枚一枚の水面へと映る「田毎の月」を見に来て楽しんでいたようです。お殿様の中には酔狂な人も居て、中秋の名月での田毎の月を楽しみたいがために、姨捨の棚田を全て青田刈りさせた、との話もあります。ですが、これは伝説なので本当かどうかはよく分かりません。

Tagoto3

今ではめったに見られなくなった「はぜかけ」の光景もよく目に出来ます。景観を意識してわざとはぜかけをしているのかも知れませんが、日本の懐かしい風景が見られるのはなんとなく嬉しいものです。

棚田の全貌を見るには長楽寺というお寺の境内の中にある、姥石という巨岩の上からが良いです。

Tagoto

写真だとよく分からないと思いますが、姨捨の棚田から長野市方面へと見晴らしが良いです。岩の上ですので足場は不安定ですので、景色にみとれて足を滑らせないように気をつけてください。

Ubaishi

姥石はこんな感じの巨岩でして、姥捨伝説と関係が深いです。由来については話が複数あるようですが、老婆が世をはかなみ身投げした岩である、あるいは、捨てられた老婆が悲嘆のあまりに岩へと姿を変えたものである、などどれも悲劇譚です。

ちなみに長楽寺の入り口に「飯島新三郎翁頌徳碑」という石柱が立っていますが、

Chorakuji

これは飯島商店の初代社長にしてみすゞ飴の開発者である飯島新三郎のものです。新三郎は長楽寺には特に思い入れが深く、篤く信仰をして援助していたそうです。

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2008年9月15日 (月)

塩尻岩鼻

半過岩鼻とセットになる大崖がありまして、塩尻岩鼻と言います。

2iwabana

上の写真の左の大崖が半過岩鼻ですが、右にあるやや緩やかな崖が塩尻岩鼻です。二つの岩鼻の狭間に千曲川が流れています。
半過岩鼻と違って鼻の穴はありませんが、半過岩鼻とセットのような位置関係にあるので塩尻岩鼻と呼ばれるようになったのだと思います。

上の写真ではなだらかな岩肌のように見えますが、

Shiojiriiwabana

近づいてみるとどうしてなかなか切り立った崖です。

半過岩鼻と塩尻岩鼻は昔は一繋がりで、大ネズミがかじって穴を開けたとの伝説があります(以前にも紹介しましたが篠ノ井有線放送のページが詳しいです)。
ちなみに上田で伝わっているネズミと唐猫伝説はこの篠ノ井有線放送で紹介されている伝説とは少々違いまして、「ネズミがツツガムシを退治した」という一節は全く伝わっておらず、ネズミは作物を食い荒らす悪者としてのみ語られています。ですが、ネズミを単なる悪者としない篠ノ井地方の伝説の方が安易な勧善懲悪話では無い分、物語に味わい深さがあると思います。

両岩鼻の位置関係からこのようなネズミがかじったという伝説が出来たものと思いますが、地質学的に見てみると半過岩鼻と塩尻岩鼻は全く異なり、半過岩鼻はヒン岩、塩尻岩鼻は緑色凝灰岩です。
ですが半過岩鼻で紹介しましたように、大昔は半過岩鼻の頂上を千曲川が流れていたのですし、半過岩鼻と塩尻岩鼻の間を比較的柔らかい地質が覆っていて見た目には半過岩鼻と塩尻岩鼻が一繋がりであった可能性は大いにあると思います。

塩尻岩鼻も半過岩鼻も同じく、千曲川の浸食作用によってできたものです。
半過と塩尻の両岩鼻の狭間は善光寺や越後方面へと抜ける北国街道が通っていたのですが、昔から非常に険しい難所として知られていたようです。加賀の前田家は参勤交代時にこの岩鼻の難所を無事越えると、飛脚を国許に出していたそうです。

今も半過岩鼻の崖崩れには悩まされ続けていますし、塩尻岩鼻の崖は大きく切り崩してようやくに崖下を通る国道18号線の安全を確保しました。今も昔も自然の大きな力と人間生活は、調和とばかりでは行かないようです。

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岩鼻(半過岩鼻)

今日は上田市民なら誰でも馴染み深い名勝である岩鼻(半過岩鼻)について紹介します。

Iwabana

正面の巨大な崖が岩鼻です。崖に大穴が開いている様子が、鼻とそっくりなのでこの名があります。
ちなみに岩鼻の手前に川が流れていますが、これは千曲川です。

Iwabana2

岩鼻に近寄ってみると物凄い大崖であることが分かります。

この崖はひん岩という岩石からできているのですが、性質がもろいせいかよく崩落します。岩鼻の崖下を国道18号線バイパスが走っていますので、台風等が来るたびに通行止めになります。現在も補修工事をしているようでして、来年(平成21年3月)まで全面通行止めとなっています。

この岩鼻の奇景がどうやって出来たかと言うと、千曲川の浸食作用です。崖の大穴は、その昔にこの高さに川の流れがあり、勢い良く川の流れがぶつかることによって崖が抉られて出来ました。岩鼻の穴から現在の千曲川まで数十メートルの高低差がありますが、そこまで千曲川が地面を掘り下げたということです。

もっとも、更に昔は千曲川の位置はもっと高く、岩鼻の崖上に千曲川の河原があったようです。岩鼻の崖上にまで車で登ることが出来まして、そこに千曲公園という小さな公園がありますが、そのあたりに落ちている石は河床礫と言って河原に落ちている石と同じなのです。

Chikuma1

これが千曲公園です。写真はありませんが、このあたりの小石は丸みを帯びており、確かに河原で見る石そのものです。

ちなみに公園という名の通りにすべり台等の若干の遊戯設備もありますが、千曲公園の名物は何と言ってもその景色です。

Chikuma2

断崖絶壁の上ですので見晴らしはすばらしく、上田市から坂城町までぐるっと見渡すことが出来ます。

ところで、武田信玄は村上義清に手痛い二度の敗戦をしていますが、先にご紹介した砥石城での敗戦ともう一つが上田原の合戦でして、この上田原合戦において千曲公園の近くに村上義清が本陣を張ったと伝わっています。上の写真では手元左手の方に橋があり、そこから写真右の方に向かって道路が延びていますが、ちょうどその辺が上田原合戦場であったようです。
まさに上田原合戦の全てを見渡せるこの景色をフル活用し、村上義清は武田信玄に打ち勝つことが出来たのでしょう。小泉小太郎の子孫である小泉氏もこの合戦に村上方として参加していますし、岩鼻のあたりまで小泉氏のホームグラウンドですので、上田原合戦における村上義清の作戦に、地形を熟知した小泉氏の貢献は大きかったと思います。

大自然の巨大な力を活用するも、逆に手痛い大打撃を被るのも、全ては人間次第です。まず自然の在り方を知ることこそ重要なのではないのか。岩鼻の奇景からそんなことを感じてしまいます。

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2008年9月 7日 (日)

曲尾の一杯清水

真田町の曲尾という地域に一杯清水という湧き水があります(大体の位置)。

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2008年9月 6日 (土)

千古の滝

真田地区にある名勝に、千古の滝(せんごのたき)という場所があります(位置)。

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2008年9月 5日 (金)

砥石城(戸石城)

昨年の大河ドラマ「風林火山」でも大きく取り上げられました砥石(戸石)城について今日は紹介いたします。武田信玄が村上義清に大敗北を喫したことであまりに有名な砥石くずれの舞台でして、全国的にも知名度のある城だと思います(砥石城登山道入り口の大体の位置。標識がたくさん出ていますので、それに従った方が分かり易いと思います)。

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2008年9月 1日 (月)

角間渓谷

上田市の真田地域になりますが、角間渓谷という絶景があります。意外と訪れる人は少ないのですが、古い時代の溶岩を川や風雨が浸食したことによってできた奇岩・奇景が数多く見られ、上田市の中でも屈指の名勝です。

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2008年8月30日 (土)

野倉の赤地蔵

以前にご紹介した、延命水のほど近くですが、赤地蔵という木彫りのお地蔵さんがあります。

Akajizou

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2008年8月25日 (月)

出浦滝神社の湧き水(上田市岡)

山田神社よりも、もっと知る人ぞ知る隠れスポットの名水を今日は紹介してみます。

出浦滝神社と言って、上田市と青木村の境にある岡という地域にひっそりと立っている神社の湧き水です(大体の位置)。やはり山の中の神社なのですが、道は山田神社への道よりも若干広いですので、むしろアクセスがし易いかも知れません。

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2008年8月19日 (火)

天狗石(天狗岩・六角石)

上田地域一帯で天狗石と通称で呼ばれている六角柱状の石があります。

Tenguishi1

石碑(月待塔)に天狗石が使われている例です。

Tenguishi2_3

石灯籠の台として使われている例です。

Tenguishi4

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、神社の本殿敷地内に石柱として祀られているのが柵越しに見えます。

Tenguishi3

何に使用されていたかは不明ですが、神社の境内に置いてあった天狗石です。

きれいな六角形をしている石柱ですので石工さんが彫った細工のように見えますが、実はこの天狗石は特に人為的な手を加えたものではなく全くの天然石なのです。そのあまりに見事な自然の造形ゆえでしょうか、天狗石は古来より大変に貴重なものとされ、上で挙げたように神社仏閣や道祖神などで神聖なものとして祀られてきました。

さて、天狗石の産する場所ですが、これは緑色凝灰岩の真田石と同じく太郎山なのです。太郎山に「指差しゴーロ」と呼ばれるガレ場があります。

Yubisashigoro

上の写真で、正面の山肌に木が生えていない大きな一帯(ガレ場)があるのが分かると思います。これが指差しゴーロでして、そのガレ場の形が人が天に向かって指をさしているように見えるので、そう呼ばれています。
この指差しゴーロのちょうど指先付近に、地質学的には柱状節理という流紋岩の岩肌があります。柱状節理は、北海道の層雲峡や福井県の東尋坊が有名ですが、以前に紹介しました米子大瀑布の崖も柱状節理です。

柱状節理は文字通り石の柱が何本も束になってそそり立っているような構造なのですが、この石の柱が折れて、指差しゴーロの急勾配の斜面を転がり落ちてきたものが天狗石です。ですので、指差しゴーロの下あたりでは相当数の天狗石の柱や欠片を見ることが出来ます。

Tenguishi5

割ときれいな石柱状で、木の根元に転がっていた天狗石です。

太郎山には数多の天狗伝説が存在し、太郎山は上田の人々から親しまれ続けたと同時に昔から神聖な山として信仰の対象でもあったようです。天狗石という名前からも、このようなきれいな六角柱をした石は、天狗の恵みであると崇められていたと思われます。

一方、天狗石にはもう一つの伝説もあります。
忠臣蔵と肩を並べる仇討ち物語として有名な曾我物語の悲劇のヒロインである虎御前の庵がこの近くにあり、その庵の柱が石化して六角石(天狗石)になった、という伝説です。
実際、指差しゴーロの麓一帯には虎御前にまつわるお堂やお寺、果ては虎御前がお化粧に使った湧き水、など様々なものがあります。虎御前は夫である曾我十郎の亡き後、供養のために善光寺参りをしていますので、上田付近に来た可能性はあると思います。

虎御前はもちろん実在の人物なのですが、曾我物語自体が後世の創作が多分に入っている可能性が大きく、また虎御前が居を構えた場所も全国各地に様々な伝承があり、実際に指差しゴーロの下に居を構えたかどうかは疑問です。伝説上の存在、という意味では上田の人々にとって、虎御前も天狗も同じような存在だったのかも知れません。

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2008年8月15日 (金)

延命水

お盆になりましたがまだまだ暑い日が続いております。今日は別所温泉の上にある野倉地域の延命水についてご紹介いたします(延命水の大体の位置)。
近くには有名な夫婦道祖神がありますので、その案内板に従って行くのも分かりやすいかも知れません。

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2008年8月 5日 (火)

龍の子太郎と真田昌幸

龍の子太郎と真田昌幸。片や伝説の主人公、片や真田氏中興の祖でして一見何の関連も無さそうですが、実はこの両者は上田城で繋がりがあります。

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2008年8月 4日 (月)

米子大瀑布

連日猛暑が続いており、山あいの信州上田とはいえ今年の夏はかなり暑いものとなっております。少しでも涼を、ということで上田近郊の有名な滝を紹介いたします。

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2008年8月 1日 (金)

山田神社の湧き水

知る人ぞ知るという隠れスポットですが、地元では有名な湧き水です。暑気払いに良い湧き水の涼しげな風景ですので、紹介してみます。

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2008年7月29日 (火)

信濃国分寺のハスの花が見ごろです

信濃国分寺でのイベントと言えば、蘇民将来符であまりに有名な正月七日・八日の八日堂縁日(上田マルチメディア情報センターの紹介ページが詳しいです)が真っ先にイメージされます。しかし最近は、夏のこの時期(7月~8月)も国分寺隣の休耕田を利用して栽培しているハスが一斉に花を咲かせますので、それも名物の一つにしているようです。

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2008年7月19日 (土)

鞍ケ淵

小泉小太郎伝説で、小太郎生誕の地とされているのがこの鞍ケ淵です(位置)。

もっとも地元以外の方ですと、小泉小太郎よりも、龍の子太郎と言った方がご存知の方が多いかもしれません(アニメ「まんが日本昔ばなし」のオープニングアニメーションで、竜の上に子供がまたがっていましたが、それが龍の子太郎です)。龍の子太郎は小泉小太郎をモチーフにして戦後に作られた童話なのです(松本の泉小太郎伝説も、龍の子太郎の作者は参考にしたようです)。

小泉小太郎の話は上田マルチメディア情報センターのホームページが詳しいですので、参考にしてみて下さい(小泉小太郎物語)。

Kuragafuchi2

これが鞍ケ淵の渓谷です。小太郎の母親が潜んでいたと伝えられている渓谷で、昼なお薄暗くひんやりとした場所です。確かに大蛇や竜が潜んでいてもおかしくない、と思わせるような淀んだ凄みがあります。

Kuragafuchi 

これが鞍岩と呼ばれる大岩で、この渓谷が鞍ケ淵と呼ばれる所以です。鞍岩は、写真の通りにちょうど橋のように渓谷の川を横断するような形で鎮座しています。この鞍岩の上で母竜が小太郎を産み落としたと伝えられており、それにちなんで、この川は産川(さんがわ)と呼ばれています。

上田の人でも、龍の子太郎の話は聞いたことはあっても、その舞台が上田だということを知らない人が多いと思います。訪れる人も少ない隠れ観光スポットですが、それだけに伝説の世界に浸れる雰囲気がよく残っていると思います。

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2008年7月 9日 (水)

鴻の巣

上田七不思議のひとつに数えられている鴻の巣ですが、不思議と言うよりも上田の名勝として知られています。

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2008年6月 3日 (火)

真田本城(松尾新城)

松尾古城に引き続き、もう一つの松尾城である真田本城について紹介します。

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2008年6月 2日 (月)

松尾古城

上田駅前の松尾町の「松尾」の由来となったのは、よく知られているように上田城の別名「上田松尾城」です。上田城を築城したのは、これまたよく知られているように真田昌幸ですが、真田昌幸と関係の深い城の中に「松尾城」と呼ばれる城は、上田城の他に2つあります(松尾古城、松尾新城(真田本城))。

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2008年4月16日 (水)

荒神宮

飯島商店からみると千曲川を挟んだ対岸、諏訪部の小菅訓導碑の近くに荒神宮(こうじんぐう)という神社があります。

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